生きている人間を好きでいるということ

生きている人間はすごい。ストーリーの更新を待たなくても私たちに新しい情報をくれる。私たちは運営のクソローテに泣かされなくてもいいし、クソライターによる解釈違いに苦しまなくてもいい(推しは独立したひとつの人格を持っているので)。

チケットを取りさえすれば会えてしまうようなタイプの存在ならばなおいい。生きている推しは毎秒が描き下ろしだからSpoon2Diに踊らされなくてもいいし、現場に入りさえすれば私たちは推しの定点カメラになれる。推しだけを双眼鏡越しの視界に入れたまま2時間近いライブを観ていられる。

事と場合によってはレスポンスをくれることだってありうる。それはコメントへの返事だったり、ファンサだったり、投げ銭に対する感謝の言葉だったり。JPEGの推しは何度生まれ変わったって私のことを見てはくれないが、生きている推しは100万分の1秒だけでも私のことを見てくれる、可能性がある。

生きている人間を追いかけるのは楽しい。それが生身のアイドルだったとしても、2.5次元的な存在だったとしても、生きている何者かを追いかけるのはとても楽しい。

 

けれど私は、生きている人間を追いかけるのが苦手だ。

まずチケットが取れないと病む。取れたら取れたで全通すればよかったと思って凹む。生きている人間は生きているのでMCで話す内容が毎回違うし、なんならセトリすら公演ごとに変えてくる。それが良さだというのは紛れもない事実だけれど、オタクとしてガッツのあるタイプかと言われると口ごもらざるを得ない私のような人間にとっては結構大きめのデメリットにもなりうる。

自分のコメントが拾われず他の人のコメントが拾われていくのを眺めていると元気がなくなるときもある。私は二次元も含めどのジャンルにおいても漠然と同担が苦手だから、推しとオタクが1対1で繋がる瞬間を見るのが正直に言って少し苦手だ。それがたとえ100万分の1秒だとしたって。

スキャンダルだとか炎上だとかに怯えないといけないのも怖い。二次元の推しが炎上したとしてもそれは推しが炎上するような場面を作り上げてしまったシナリオライターなり脚本なりの責任であり、運営の責任であり、あるいはオタクの責任であり、とにかく推しの責任ではない。でも生きている推しは違う。馬鹿な女に引っかかってスキャンダルを起こすかもしれない。失言をしたり問題を起こしたりして他界隈にまで知られるような大炎上を起こすかもしれない。それは全部、全部、全部推しの責任だ。推しが100%悪いわけじゃないとしたって、推しの責任はほとんどの場合決してゼロにはならない。二次元の推しとは違う。

 

でもやっぱり生きている人間を応援するのは楽しい。

生きている人間は現実の存在なので現実に存在するものを使って生活している。彼らが食べるものも、飲むものも、身に着けるものも、全部私が生きている現実の世界に存在するものだ。なぜなら彼らは現実に存在しているので。推しと同じ香水を付ければ合法的に推しと同じ匂いになれる。私は実家暮らしの限界オタクなのでそれ以上の事はいささかばかり難しいのだが、本当なら柔軟剤だとかシャンプーだとかまで揃えるとなおいい。お化粧をする推しならメイク道具の真似だってできる。

新しいお仕事を貰って活動の幅を広げていく推しを見るのも楽しい。それは例えば地上波の人気番組だとか、大きなコンテンツとのタイアップだとか、CDのリリースだとか、なんでも構わないのだけれど、推しのひとつひとつのお仕事を喜べるのが嬉しい。そのお仕事を推しが楽しいと笑ってくれたらさらにいいし、私の「良かった!」が届いて、それが推しの心にほんの少しでも触れたならもっともっともっともっといいと思う。

それにいつか推しが舞台を降りる日が来たって、「推し」であった誰かは舞台ではないどこかできっと幸せになる。それを喜ぶべきかは分からないけど、サ終で永遠にさようならよりはずっといい。推しに幸せになってほしいから、電子の海に消えてほしくないから、私の知らないどこかで幸せになってくれる方がいい。いや本音を言うなら私の知っているところで幸せになってほしいのだけれど。

 

生きている人間を応援するのは、楽しい。